サムテック有限会社 小林創太郎のブログページ
リーマン不況からの回復とオリンピック開催・王室結婚を経て、再入国する度に着実に未来に向かって変化してゆくマンチェスターに再会した。サッカーとメディア系ICT産業と倉庫・小売業の発展を原動力にした街の姿は昨年と変わらずエキサイティングだった。ICT関連量販店のPCワールドのGoogle Chromeの特設展示コーナーでTV用端末「クロームキャスト」、電子機器量販店のマプリンでPCをタッチレスで手モーション操作できる「リープ・モーション」をゲットした。米ネットギア社が、延長用無線LANルーターと電力線通信用のPLC子機を一体にした製品の販売を開始していた。ラズベリーパイには興味ないな。。。
生来のイギリス人(イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人)のロンドン以外の町への移転流出に歯止めがかからない状況は過去10年以上にわたって指摘されてきたが、ついに人口の55%以上をアジア・アフリカ・ヨーロッパ大陸からの移民が占めるようになったのを実感した。ネットショップとの競争により閉店が相次いだ末に、BTタワーの足下にあったトッテナム電気街は今日ではすっかり消滅していた。。。百貨店ジョン・ルイスの電気製品フロアで、Hi-Fiオーディオ用のフィリップス Bluetoothレシーバーをゲットした。厚みと透明感が両立している音質の再生能力がとても気に入った。
マンチェスターから列車でリーズよりさらに東へ1時間移動し、14年ぶりに古都ヨークを訪れた。古代ローマ人による支配→アングロサクソン王による統治→その後の北欧バイキングによる侵略→ノルマンディー公ウィリアムのイングランド統一→ピューリタン革命期のクロムウェル議会軍の入城要塞化 それぞれの時代の政治的要所だったヨーク城(クリフォード塔)、およびヘンリー8世によるイギリス国教化以前は中世ローマカトリック教会の大司教座聖堂だったヨーク・ミンスターの歴史の重みを満喫する1日だった。チューダー様式→ジョージアン様式→ビクトリア様式→1950年代の居間の変遷の展示が見事。。。
HTML5 移行に向けてのコーディングテスト Tab4
HTML5 移行に向けてのコーディングテスト Tab5
HTML5 移行に向けてのコーディングテスト Tab6
HTML5 移行に向けてのコーディングテスト Tab7
HTML5 移行に向けてのコーディングテスト Tab8
HTML5 移行に向けてのコーディングテスト Tab9
2013年の新しい年が明けて間もない時期に、久しぶりにイケア新三郷店に行った。
3年前の開店当初よりルームショールームのデザインが格段とレベルアップしていてとても良かった。
久しぶりに最新の北欧デザインに触れて、とても勉強になった1日だったな ...
今回の再入国でも、サルフォード地区のメディアシティを拠点にマンチェスターとリバプールとロンドンを訪ねた。HPの他に東芝とサムスン電子がオールイン
ワンPCの分野に参入していた。屋内ハイビジョン映像ストリーミングの普及によって1.3Gbpsのデータ転送速度が必須となり、ネットギア製やベルキン製の
IEEE802.11ac無線LAN親機が店頭に並んでいた。スマホ・タブレット直接プリント可能な新型モデルのカラーレーザープリンタを投入して、HPとサムスン電子の間の低価格競争がさらに激しくなっていた。ネットショップとの競争に敗れたHMV・コメットなどの老舗ディスク・家電量販店が経営再建に陥っていた。
東日本大震災の発生から3年目に入った仙台へ出張する機会を得た。約20年ぶりに仙台城址青葉山公園の高台から広瀬川をはさんで仙台市街を一望した。長い年月を経ても変わらず広大で美しい眺めだったが、と同時に震災で崩れてしまった石垣の修復工事がやっと始まったばかりという現実を目の当たりにした。帰りに利用したタクシーの運転手が、復興工事の仕事ばかりで漁業と農業の再生に全く目処が立たないのでみんなつらい状況だと不満をぶちまけていたのが忘れられない。一旦津波で失ってしまった第一次産業を元のレベルの収穫量まで戻すのは新天地を開拓するのと同じ労力と年月を強いられると思い知らされた。
自社開発で構築した社内サーバーの数が増えてきた。これらのシステム状態を監視するためにできる限り省スペースで高パフォーマンスなサーバーが欲しくなったので、新たに富士通のタワー型サーバー Primergy TX120 S3 を購入した。ヨーロッパでITインフラ構築の仕事をしていて偶然客先にあったサーバーを構築メンテして以来、久しぶりに Primergy サーバーに Linux OS をインストールした。最新のドイツ製 Open SUSE 12.1をインストール後にYaSTを使って無料レポジトリからパッケージをアップデートしApacheをコンフィグして基本Webサーバーが完成した瞬間は久々の感動だった。- It works! Danke, Gut!
構築した基本Webサーバーに、MySQLデータベースとPHPのモジュールを追加設定して従来品通りのSUMWEB LAMPサーバーを準備した。既に数多くの通信キャリア/サービスプロバイダのデータセンターに採用されて評判が高い ZabbixサーバーをこのLAMPサーバー上にインストール設定して念願のシステム監視サーバーが完成した。手始めとして社内LAN上のサーバー3台にZabbixエージェントをインストール設定し合計4台のサーバーのシステム状態の監視と障害検知を開始した。富士通製 ServerView ® による監視サーバー自体のハードウェアチェックと合わせて全てグリーン色で正常に安定稼働していて Very Happy!
2013年1月14日の成人の日は、東京やさいたまなど関東地方は7年ぶりの大雪に見舞われた。
最近購入したキャノンのハイエンドコンパクト機 PowerShotG1X で、自宅の窓からその様子をハイビジョン動画で撮影した。
これだけの降雪になると、北海道やシベリアと大して変わらない光景だった ...
メディアシティ周辺の家電量販店のサムスンテレビの陳列コーナーは、常にアピール力が際立っているデモビデオを流しているので今回も再訪した。
3DスマートTVとスマホで欧米市場を制覇したのを武器に、スマホのリモコンアプリを活用して番組・映画の検索やSNS・サイト閲覧とビデオ通話などの
操作をサムスン製デバイスでシームレスに連携させることを狙う野心的な内容のビデオだった。現在のところシェアの低いデジカメとハンディカムを最後に登場させることによって、情報家電の世界制覇を締めくくる構成になっているのが何とも心憎い。今回は、来客のほとんどが足を止めるスペースとなっていた。
マンチェスターの南東に位置するストックポート地区のマージー川最上流の地下河川の光景を撮影した。
地上に構えるショッピングモールやビジネス街の近未来的なデザインと隣り合わせに、100年以上も変わらない光景が残っているのが
とてもイギリス的だった。このマージー川はビートルズに代表されるマージービートの発祥地リバプールへと川幅を広く拡大させながら流れてゆく。
大震災発生1年前の2010年春の満開の桜の景色は、凛として本当に美しかった。
思わず何度もシャッターを下ろして撮影する衝動に駆られた。
今から考えると、天変地異が起きる前の不気味な静けさだったのだろうか?
人生の30歳代に学び働き現在の自分を築き上げてくれた英国とのつながりを維持するため、年に1回程度訪問している。
この年は、マンチェスターとニューカッスルとリバプールとロンドンを再訪した。正直なところリーマンショック後に、貧富の格差が拡大したと感じた。
リバプールでは右翼政党と左翼学生グループの衝突を見た。人々の間で経済競争が激しくなり、サムスン電子の欧米テレビ市場での攻勢が始まっていた。
2011年3月11日の震災発生前と震災後では、日本は本当に大きく変わってしまった。
わずか1日にして津波と原発事故で家と故郷を失ってしまった人に援助物資を運び続けるのが精一杯だった思い出は、残念ながらトラウマになってしまった。
これだけの惨事に遭いながら全くパニックに陥らず、援助物資を受け取る列を全く乱さない日本人の姿を世界に誇れる瞬間だった。
震災に見舞われた2011年のクリスマスシーズンは、原発稼働停止による電力供給規制の影響でイルミネーションは控えめだった。
震災後の自粛モードの中、クリスマスを祝う人影はほとんど見られない年だった。
英国やドイツなどプロテスタント国の感覚だとクリスマスとは倹約質素を謳うイエス様生誕の日だ。クリスマス本来の静かな時間を過ごせる年だった。
この年の訪問では、マンチェスターとリバプールとロンドンを再訪した。マンチェスターではBBCがロンドンから本社機能を移転する案が浮上している
サルフォード地区のメディアシティに行った。スマホ・タブレット端末向けの放送・音楽・映画コンテンツのストリーミングサービスが急速に普及していた。
カラーレーザープリンタ市場では、HPとサムスン電子の間での低価格販売競争が激しさを増しているのが印象的だった。ダイソンのハンドドライヤーを見た。
本土復帰からちょうど40年が経つ沖縄を旅行した。首里城・今帰仁城・座喜味城・美ら海水族館に行けてとても楽しかった。
最後の日に平和記念公園を訪れた時間はとても重苦しかった。沖縄戦で自決を迫られた島民の方々、
異国での戦闘で倒れたアメリカ・英国・カナダ・オーストラリアなど連合国兵士と日本兵の方々のご冥福を心よりお祈り致します。- RIP everyone!
朝起きたら、とっくの前に日の出を迎えていた空が急速に暗くなってきた。
食のピーク時間ちょうどに運良く太陽は薄い雲に覆われた 。。。
リングをなんとか撮れたので、この日は1日中感動ひとしおだった。
英国リバプールに行った際に、市の中心部で右翼(BNP 英国国民党)と左翼学生グループが衝突している場面に遭遇した。
右翼はユニオンジャック旗を高く掲げながらアフガニスタン・イラク駐留軍人への支持とイスラム系移民を厳しく取り締まることを主張していた。
左翼学生グループは、BNPの本質はナチスと唱えてBNP断固反対を叫んでいた。両陣営のすごい政治的な気迫を感じた。
本土復帰からちょうど40年が経つ沖縄を旅行した際に、エメラルドグリーンの海を撮った。
死んだ珊瑚から形成されてきた砂が独特な海岸の景色を見せてくれて感動した。
過去に中国の属国となったりアメリカの施政下に置かれた美しい沖縄の島が、いつまでも日本の領土であり続けることを祈ります。
沖縄糸満市にある平和記念公園の南に位置する崖を撮った。
沖縄敗戦の末に連合軍に追われて数多くの島民が飛び降り自決する映像がアメリカ兵により収録されたが、その中の悲惨なシーンで有名な崖だ。
この崖を見てすぐにあの崖だと気が付いた。心よりご冥福をお祈り致します。
2008年3月に、パスポート更新の手続きのためリバプールの家からロンドンにある日本大使館へ行った。
無事に更新を終えた後、大使館のあるロンドン中心南西部のグリーンパークからハロッズのあるナイツブリッジまでピカデリー通りを撮った。
変化する大都会の真ん中に、ハイドパークとそれに向き合うグリーンパークから成る巨大な緑地帯を変化なく対照的に維持できるのは羨ましい限りだ...
2008年という年には格別の思い出がある。当時暮らしていたリバプールは、この年は欧州文化首都に選ばれた関係のイベントで非常に盛り上がっていた。
「海商都市リヴァプール」として世界遺産に認定されているアルバート・ドックやスリー・グレースなどの建築物は、どの建物もアート効果抜群の照明で
ライトアップされていた。残念ながら、2009年になって間もなくリーマンショック不況に直撃されて、建設ブームと土地バブルはまたたく間に冷めていった。
前のブログ記事で触れた2008年リバプール欧州文化首都関係のイベントの一環で、港に有名な英国の航空母艦アーク・ロイヤルが寄港した。
5代目 HMS Ark Royal として湾岸戦争とイラク戦争の主力航空母艦の任務を全うした実績から、寄港イベントには連日沢山の人々が見物に訪れていた。
中東の誘導ミサイル技術を抑止できるレーダー技術のレベルの高さを実感した。その後の緊縮財政策であっけなく2年後に退役し解体されたのには驚いた。
週末にウェールズにハイキングに行った。イングランド側のリバプールを離れてウェールズ国境を越えると、突然全ての看板の標記が母国語ウェールズ語と
第2言語である英語の両方の表示に変わる。イギリスは単一民族国家では決してないということを実感する瞬間だ。
マハンセスの町で自生していたラッパ水仙の茎はとても太くて力強かった。アバリストウィスのアイリッシュ海は美しさと荒々しさの二面性を持っている。
怖いもの見たさの衝動に駆られて、久しぶりにエジンバラに行った。中世から近世にかけてイングランド王家からの侵攻に対して常に戦闘態勢を整える運命に
置かれたスコットランド王家の居城、エジンバラ城を久しぶりに訪れた。ヴァロワ朝のフランス王妃でエリザベス1世のいとこの娘だった最後の女王
メアリ・スチュアートは、夫の急逝によって帰国した後に権力闘争に敗れて処刑されるまでの間、よくこの凍てついた城に住み続けられたものだとあらためて
驚かされる。街の至る所に血みどろの戦いにまつわる幽霊話が残る場所でもある。1年を通じてとにかく天気が悪く気温が低い街だ。
アバリストウィス駅の改札を降りてひたすら西の方向を目指して歩いてゆくと、透き通った空色の大海原がいきなり眼中に飛び込んできた。
右側に見える丘はコンスチチューション・ヒルというアバリストウィスの有名な丘だ。普段のアイリッシュ海は猛烈な勢いの偏西風による嵐に見舞われる日が
多いが、この日は信じられないぐらいに穏やかな日だった。貴重な太陽の光を求めて、人々が戯れていた。
日光浴を楽しみ始めてから30分ほど経った頃だっただろうか。あっという間に潮が満ちてきて、さっきまで穏やかだった波は突然荒くなり、
辺りは潮のぶつかり合う音に包まれていった。ぐずついた雲行きでなくて本当に良かった。
ひとたび天候が変われば、古くから今日まで幾人もの漁師を飲み込んできた嵐の海へと豹変するが、この日はとても幸運なことに一日中穏やかだった。
2005年の春から冬にかけてアパルトマンとホテルを転々としながらパリに長期出張した。映画ファンだった若い頃に学んだフランス語の基本文法を思い出し
ながら何とかサバイバルできた思い出は、この間に起きたすべての出来事がこの街の持つ独特の光に照らされて今でも鮮明に脳裏に刻まれている。アメリカ映画やブリティッシュ音楽の英語圏文化とは一線を画するフランス映画の舞台通り、パリのフランス文化は地球上に存在するもう一つの別世界だった。
アメリカナイズされて暮らしてきたこれまでの英米のライフスタイルに別れを告げ、新たに生まれ変わって毎日暮らしている錯覚に何度も陥った。
秋の空気が感じられるようになった時期、パリから西へ国道 N12 をひた走りアランソンの街に入った後に右折して北上しながらバス=ノルマンディーの
カーンの街に行った。カーンは、イングランド初代王のウィリアム1世の生まれ故郷の街として有名な場所だ。1066年にこの地の領主だったギヨームが海を
渡ってヘースティングスの戦いでアングロ=サクソン王ハロルドを敗り、イングランドを征服して戴冠したのがイギリス王室の始まりとなっている。以降に
この地がイングランドとフランスどちらの国土なのかが曖昧になってしまい、両国の長い間の対峙関係を宿命づけた名残を至る所で目にすることができた。
客先のオフィスから程近い場所にあるベルサイユ宮殿を訪れた。フランス絶対王政の全盛期の国王ルイ14世が建てた巨大邸宅であることはあまりに有名だ。ルイ14世の肖像画をはじめ数々のフレスコ画を実際この目で見たが、いくらプロの宮廷画家とはいえ生身の人間が描いたものとは思えない躍動感とエネルギーに満ちあふれている至宝の数々だった。観光の最後の場面は、孫のルイ16世と王妃マリー・アントワネットの寝室や外交サロンの「鏡の間」で締めくくられた。こんな所で生活感覚が麻痺した状態で毎日暮らしていたら、宮廷の外で奴隷労働している庶民の生活水準なんか見えなくなってしまったのだろう。
秋深まった10月にセーヌ川下流のオート=ノルマンディーの首府ルーアンの大聖堂を訪れた。初代イギリス王ウイリアム1世の祖先である初代ノルマンディー公ロロの墓地でもあり、またフランスにとっては英仏100年戦争における救国の英雄だがイギリスにとっては謀反人の立場にあるジャンヌ・ダルクが火刑に処されたルーアンは、他にも英仏の中世の歴史に深く関わている威厳と重みを感じる街だった。重厚なゴシック建築の大聖堂であることがそのことを物語っている。この大聖堂を印象画に描いて残したモネに影響され、ライトアップされた大聖堂の光にクロスフィルターで線効果を付けて撮影した。
パリから西へノルマンディーへ向かうのとは逆方向に北東にベルギーに向かう途中の地域は、ノール県のカンブレやエノーにより成っている。オランダ語系のフラマン語とフランス語を話す人々が狭い地域に混在する地域なので、多くの住民が生まれながらにしてバイリンガルなのが面白い。ベルギー国境までの道中、ほとんど人影を目にせずひたすら赤い大地の地平線と牛の放牧地が広がっていた。フランスは全労働力の3%の農業従事者でもって世界第6位の金額の農産品を生産している国だということが一目瞭然で理解できる光景だった。広大な土地を独りで管理しなければならない生活は、疲労困憊の連続に違いない。
フランスのノール県から無人の国境を越えてベルギーのエノー州に入ると景色は一変する。そのまま直進して州都のモンスの街に向かった。中世以来エノー伯爵領だったこの地は、17世紀から19世紀にかけてスペイン・フランス・オーストリア・オランダという4つの大国の争奪のターゲットとなり、短い期間に各国に併合される歴史を辿った。また1830年にベルギーとしてオランダから独立した後も、2度の世界大戦中にドイツに併合された。そのことは、この街の風景がスペイン風とブラバント風のゴシック・バロック・戦後の赤レンガという異なる国の多彩な様式の建物が織り混ざって成り立っていることから見えてくる。
ある初秋の夜、毎夜1時間に1回スパークリング照明とビーコン照明を組み合わせたイルミネーション・ショーを見せてくれるエッフェル塔を撮りに行った。
大勢の客が陽気に盛り上がりディネを楽しんでいた周囲のレストランから漂うシャンパンとワインの香りに包まれながら、わずか10分間の撮影チャンスを
うかがったのを今でもよく憶えている。LED電球でなく白熱電球使用のため消費電力が高すぎて、ユーロ危機後の現在はわずか5分間の撮影チャンスに
大幅短縮されたことを考えると、とても幸運だったの一言に尽きる。
1909年にはビジネス的に使命を終えたとみなされて解体される予定だったエッフェル塔が今日でもまだ残っている理由は、あくまでラジオ・テレビ送信用の
電波塔としての存在意義にすぎない。より低い周波数帯の主にFMラジオ送信用の長いエレメント長のVHFアンテナと、より高い周波数帯のテレビ送信用の
短いエレメント長のUHFアンテナの2段構成の真下から、ビーコン照明が照射される瞬間が撮影できた瞬間は感動ひとしおだった。
下からリフトが展望台へ向かってゆくのがよく見えた。
2003年〜2004年にかけての時期にイギリス企業のベルギー支店のITインフラエンジニアとして働いた。特に2004年はオランダやドイツの顧客案件に携わり、ゲルマン文化や気質について仕事を通じて体得する機会を得た。ベルギー最東部のドイツ語圏の街オイペンから車で無人の国境を越えてドイツのアーヘンを度々訪れた。800年にカール大帝が東ローマ皇帝からフランク王国としての独立を信認されて戴冠して以降に王宮と教会を建てた、ドイツ人とフランス人にとって最古の都だ。東ローマビザンティン様式のドームが特徴の大聖堂と14世紀に建てられた市庁舎を中心に中世と現代の文明が完璧に調和する見事な街だった。
アーヘンからアウトバーンE40で東に向かって行ける巨大聖堂の街ケルンも何度か訪れた。北の方角の下流に位置し多くの日本人が住む金融・商業の街デュッセルドルフと並ぶライン河畔の大都市として有名な街だ。第一次世界大戦にドイツが敗戦した1918年から翌年のベルサイユ条約による講和でノルトライン地域が非武装地帯化されるまでの間に英仏連合軍に占領されたため、ドイツ語読みのケルンと英仏語読みのCologne(コローニュ)の両方の街の名前を持っている。第2次世界大戦中にイギリス空軍による激しい爆撃で街の90%が焼失したが、高さ157mあるゴシック大聖堂と精細なレリーフは奇跡的に無傷だった。
ベルギー最東部のドイツ語圏の街オイペンから北東にオイペナー通りを走るとドイツのアーヘンに至るが、逆に南東にモンシャウアー通りを走って無人の国境を越えると谷間のドイツ保養地モンシャウの村に至る。1815年プロシア皇帝がここをドイツ領と宣言したが1918年ドイツが第一次世界大戦に敗れた際に、一時オイペンと一緒にベルギーに編入された歴史を持つ村だ。ドイツに戻った現在は整然とした区画整理と建築基準に沿って作られた美しい保養地となっている。このモンシャウ城をはじめ西フランク(フランス)と東フランク(ドイツ)の領主間での争いを物語る中世の砦跡が、アイフェル地方一帯に点在する。
モンシャウの村を出て国道266号を東に走るほど集落は見えなくなり、ついには広大な貯水池と濃いグリーン色に彩られたアイフェル国立公園の荒野に至る。多くの絶滅危惧種が生息する広大な自然保護区域だが、地平線の先の土地に至るまで一定の秩序を保って区画整理されている景色には心底驚かされた。ドイツの半端じゃなく徹底的な環境保護政策に基づく土地区画整理を見た。国立公園を抜けて、温泉の街バート・ミュンスターアイフェル/口径100メートルの巨大電波望遠鏡の村エフェルスベルク/廃墟の砦の集落アルテンアール/モーゼルワインの産地アールヴァイラーの葡萄畑の丘を訪ねた。すべて完璧に整っていた。
モンシャウの村から南東の方向に向かってラインラント=プファルツ州に入り、州の東に位置するライン川とモーゼル川の合流点の街コブレンツや南に位置するトリーアへ行くのに利用する道が国道258号だ。アイフェル丘陵を走る国道266号とは異なりひたすら平原を走る街道だった。コブレンツとトリーアへの追分地点一帯は非常に平らな土地で常に北からの安定した気流に恵まれているため、大規模な風力発電に活用されていた。大量の風力タービンが一斉に回転して発する低周波の音が忘れられない。この時は発電量の大半を風力で賄うのは夢物語に思えたが、原発事故を機に現実的な重要技術だと目覚めさせられた。
夏の盛りのある日、ライン川とモーゼル川の合流点の街コブレンツに行った。古代ローマ皇帝が城砦を建設して以来河川交通と西フランク(フランス)に対する重要軍事要塞として発展してきた街だ。ドイチェス・エックと呼ばれる川の合流点に、フランス皇帝ナポレオン3世に勝利した1871年から第1次世界大戦敗北と革命の勃発によって1918年に滅亡するまで存在したドイツ帝国(第2帝国)初代皇帝ヴィルヘルム1世の騎馬像が立っている。その前で夏の風物詩ロックフェスティバルが行われていた。不滅の力強い鷲の双翼を持つこの像は第2次大戦中に空爆で破壊されたが戦後にドイツ統一の悲願の象徴として再建された。
同じ年の夏の日に、トリーアの街に行った。ルクセンブルク公国とフランスの国境に近く、どこかラテン的でドイツらしくないモーゼルワインの一大産地だった。また一方で、古代ローマ遺跡群と2つの大聖堂が世界遺産登録されている街でもある。砂岩で作られた2世紀に古代ローマ人が建てた一際目立つ存在感のポルタ・ニグラ(黒い門)と夕陽に映える聖ペテロ大聖堂、聖母マリア聖堂の風景が忘れられない。教会を訪れた後に街中を散策している途中、一列に隊列を組んだ赤いネッカチーフを首に巻いた数百人の中国少年先鋒隊の子ども達が、この街のカール=マルクスの生家を詣でる姿に出くわしたのには面食らった。
秋の気配が近づいた頃、夏に訪れた南のモーゼルとは逆にアーヘンからケルン・デュッセルドルフ・エッセンとドルトムントのルール地方重工業地域から北上してノルトライン=ヴェストファーレン州の北の街ミュンスターを訪れた。ローマカトリック教会の幼児洗礼を否定した成人洗礼派(アナバプティスト)が16世紀に市政を掌握した末に鎮圧された歴史を持つ街である。この時処刑された3人のリーダーの遺体をさらした3つの檻が永遠に吊るされている聖ランベルティ教会の塔を見た。凄惨な宗教改革戦争の爪痕だった。一方で美しいデザインのゴシック建築で有名な聖パウロ大聖堂の周りの空気は引き締まっていた。
ベルギーという国は、15世紀のハプスブルク家への併合と分裂以降、スペイン領・オーストリア領・フランス領・オランダ領としての歴史を経て1830年に独立した。また、第一次・第二次大戦中はドイツに占領された。そのため生活様式・文化・建築様式などあらゆる面でラテンとゲルマンが融合し、これらの特徴がヨーロッパの中心とみなされて現在ではブリュッセルがEU(ヨーロッパ連合)の首都としての役割を担っている。世界中から贈られる衣装を毎日着替える小便小僧と2000年にユーロネクストに統合した証券取引所の建物を飾るロダンを始め世界的巨匠の手による彫刻の顔立ちは、まるで生きているようだった。
2004年8月のある夏の日、周囲の人々からこう言われたのをよく憶えている。「いまこの時期この場所にあなたが居る事はまたとない幸運としか言いようがない。フラワーカーペットをこの目で見られるのだから。。。」2年に1回ブリュッセルの中央広場グラン=プラスで大規模なフラワー=カーペットが催されることを知らなかった自分は、この言葉に動かされ興味半分に見に行った。ベゴニアの花の気品ある甘い蜜の香りに包まれる心地よい時間に普段味わうことのできない充実を感じた。この日だけは世界遺産の市庁舎への入場を許された。その後、日本の新聞・テレビでもよく紹介される世界的に有名な祭典だと知った。
同じ2004年夏の時期にブリュッセルから車で北上してベルギー北部のフランドル地方を通りオランダまで足を延ばした。その行程で最初に訪れたのが壮麗なブラバント・ゴシック尖塔で有名な聖母大聖堂の街アントワープだ。実は原作の存在が現地の人の間ではほとんど知られていない物語「フランダースの犬」の少年ネロと忠犬パトラッシュが凍死する寸前に見たルーベンスの祭壇画を見た。歴史上の傑作「十字架に架されるキリスト」「十字架から降ろされるキリスト」「天国に昇る聖母マリア」の3部作には絵画の表現の域を越える強烈なメッセージ性を感じた。中央広場で観た中世の社会風刺劇の大道芸が面白かった。
アントワープを出発して北東にブレダ道路を走り、無人の国境を越えてオランダのブレダの街に行った。オランダ側国境には一際目立つ王国の国章が埋め込まれた道標が立っている。現在ではベアトリクス女王が退位しウィレム=アレクサンダー国王が即位したのには時代の流れを感じる。国境の村ズンデルトは、画家ゴッホが生まれ育った強風にさらされる日が多く生活が厳しい質素な村だ。村を過ぎてオランダの平地をひたすら進むと、古くからオランダとイギリスの貴族が住むブレダの聖母教会の尖塔が目に入ってきた。オランダらしい質素な生活とアンティークショップの質の高さが印象的な街だった。
夏が去り急に日が短くなった頃、オランダで最も西に位置するゼーランド[Zeeland]州を訪れた。地理的に北海に面するため中世から近代にかけてイギリスとフランドルの間の仲介貿易で栄え、17世紀にはオランダ東インド会社の拠点が置かれた街だ。この街に入るとイギリスの強い影響を即座に感じた。通りの建物は、18世紀イギリスのジョージアン様式に極めて似ている。17世紀〜18世紀にかけて交易を通じて建築技法をイギリスから輸入していたのではと想像した。しかし一方で、ブラバント・ゴシック様式の市庁舎と教会はオランダの風景そのものだった。巣から飛び立つコウモリの大群が不気味だった。
ブリュッセルから高速道路E40/A3を東に走り、ザベンテム空港を過ぎると間もなくルーヴァンの街に着く。1425年にローマ教皇マルティヌス5世の勅令により創立されたルーヴァン=カトリック大学を中心とする学生街なので、若者が多く活気に満ちていた。市庁舎と世界遺産登録されている聖ペテロ教会の2つの時代を異にするゴシック様式の建物が、中央広場を挟んで向かい合って建っている。また一方で、この街は2度の世界大戦中に大学図書館や市庁舎をドイツ軍により破壊された過去を背負う。左手に書を持ち右手でビールを頭にかける学生をモチーフにしたフォンスケ(知恵の泉)という彫像が面白い。
ドイツのアーヘンから南西に15Kmほど離れたベルギー側にオイペンの街がある。緑青の2本の塔を頂く聖ニコラウス教会が印象的な街だ。この街は隣町のマルメディと同様に1794年フランス革命政権によりフランスに併合されたが、ナポレオンがプロシアに敗北したのを機に1815年ウイーン会議の場で正式にドイツ領となった。しかし第一次世界大戦でドイツが敗北したのを機に1919年ヴェルサイユ条約によりベルギーに編入された。ほとんどの住民がドイツ語を母国語としているためその後オーストリアと共に自主的にナチスドイツへの忠誠を誓ったが、第二次世界大戦でのナチスドイツ敗北後に再びベルギーに戻った。